『蔦重』
吉森大祐著
あらすじと感想
横浜流星さん主演、2025年大河ドラマ『べらぼう~蔦重栄華乃夢噺~』の主人公・蔦屋重三郎の光と影を描いた連作短編集。
面白かったので簡単なあらすじと感想を書いてみました♪(ネタバレ注意)
点線枠の中に書いた注釈は私が調べた内容です。間違えていたらすまぬ。
Contents
『蔦重』あらすじと感想「美女礼讃」
あらすじ
江戸に勇助という貧しい絵師がいました。
勇助は『耕書堂』という書店を営む蔦屋重三郎と出会い、ある日、吉原の妓楼主が集まる会合に誘われます。
近頃幕府から贅沢禁止のお達しが出て、吉原遊郭は客集めに苦労しているのだとか。
そこで妓楼主たちは、二百両という大金を使って長崎から呼び寄せた14歳の美妓・佐枝(さえぐさ)を次の花魁揚巻に仕立てあげ、格の高い客を呼び込もうと考えます。
そのためには佐枝の美しい錦絵(浮世絵)を作製し、広く宣伝しなくてはなりません。
当時、江戸で美人画といえば鳥居清長とその弟子たちでしたが、重三郎はこの仕事に勇助を抜擢しました。
花鳥風月を追求する格式高い仕事をしてきた鳥山石燕を師匠に持つ勇助は、花魁の姿を描くなんてとんでもないと断ります。が、五十両💰という大金をもらえると知って気持ちが揺らぎます。
結局、重三郎から「美人画を描く時だけ名前を変えれば良い」と提案され、狂歌の会で名乗った「喜多川歌麿(きたがわ・うたまる)」という名を使うことに。
勇助には於理世(おりよ)という病気の妻がいました。
二人は共に身寄りのない孤児で、幼い頃から石燕のもとで絵の修行をしてきた仲間でもあります。
結婚し、貧しいながらも仲睦まじく過ごしていましたが、粗食と重労働による過労で於理世が倒れます。石燕がどこからか調達した十両をくれましたが、それもすぐに底を尽きてしまいました。
そんな時に知り合ったのが蔦屋重三郎だったのです。
【当時の貨幣価値】※時期によって違いあり
一両=4000文とすると、当時の新刊本が一冊300文(現在の価格で約4950円)くらいだったようなので、石燕がくれたという十両は今でいうと66万円くらいになります。
ちなみに美人画で勇助が得られる報酬・五十両は330万円、長崎から佐枝を連れて来た費用は二百両なので、なんと1320万円😲
参考:『江戸時代の本』
いざ美妓を描くため吉原へ。
佐枝を一目見た途端、その姿が若い頃の於理世に重なった勇助。
隣部屋に控え、彼女の水揚げ(初めて客をとること)の様子を絵に描かなければなりません。彼女が置かれた立場やのしかかる重圧を思い、涙が止まらなくなる勇助。
水揚げを終え、心と体が離れてしまいそうだと嗚咽を漏らす佐枝に頼まれ、必死に抱きしめます。
雲母摺り(きらずり)という特殊な印刷が施された佐枝の錦絵は大評判になりますが、勇助は自分が歌麿であることは口外しませんでした。
もらったお金で於理世にできることは何でもしましたが、於理世は良くなりません。
そんな中、師匠の石燕が歌麿の正体に気づき、「下品でみだらな絵に手を染めるのは下衆のふるまい!!」と怒鳴りこんできます。
勇助は「女性を描くことは虫や鳥を描くのと同じくらい難しく、決してみだらなことではない」と反論します。何より勇助には金が必要なのです。自然を描いた絵本『画本虫撰(えほんむしえらみ)』や『汐干のつと』は売れなかったけれど、佐枝を描いた錦絵はもう何回も再販を重ねているのです。
『汐干のつと』
喜多川歌麿
勇助がついに本当に描きたいものに出会えたことを祝福する於理世ですが、佐枝の絵を見て「この花魁と心が通じ合っていなければこのような絵は描けますまい」と涙をこぼし、それを見た石燕は勇助の不義理に激怒したまま於理世を連れて出て行ってしまいました。
於理世はその直後に亡くなったといいます。
一方、佐枝のおかげで吉原は大盛況。
勇助は若い男と若い美妓、衝立の向こうで恨みがましく覗いている女房の絵を描きました。若い男の脇に「勇助」、女房の脇には「理世」と書き入れ、「歌麿筆」としたためます。
この絵を残し、勇助は江戸から姿を消したのでした。
感想
寛政3年は、喜多川歌麿の空白の一年とされています。この一年だけは絵を描いていないのです。栃木の豪商・善野嘉兵衛の元に身を寄せていたとも言われており、善野嘉兵衛は小説の中で佐枝の水揚げを担当した客として描かれています。
吉原の話は胸が痛みますね。小説の中でも「心と身体が離れてしまいそう」だと泣く14歳の佐枝がただただ可哀想でした。それでも佐枝は期待の花魁候補としてまだ最上級の扱いを受けているという事実。
勇助が女性を描くようになり、「驚いたぜ。女には心があり、思いがあり、邪念がある。ゆえに面白い」と思っているところは「はぁ~?」と思いました。女にもあるよ、心!
於理世の気持ちもわかります。夫がやっと自分の描きたい絵に出会えた…。けど、それが花魁かよ、春画かよ~ってなるよ。大衆向けに描く花魁の麗しい姿とは別に、太客などにこっそり配る枕絵もあったそうです。(勇助が水揚げの様子を描いていたように)
しかし勇助が美人画に目覚め、その鋭い観察眼のおかげで当時の色々な年齢・身分の女性たちの生き生きとした姿が描かれた絵が現代にまで残っているのも事実。
この後、勇助は更に美人画にのめり込んでいくことになります。
ちなみに、歌麿に妻がいたのかどうかははっきりわかってはいませんが、空白の一年の前年、歌麿と親しい間柄の女性であると推測されている利清信女(りせいしんにょ)が死去したという記録が残っているそうです。
『蔦重』あらすじと感想「桔梗屋の女房」
あらすじ
「桔梗屋」というのは吉原の引手茶屋で、女房のトメは重三郎の昔馴染みです。
引手茶屋
客と妓楼を仲介する料亭。
客はここで食事をしながら遊女を呼んだり、食事の後に妓楼へ案内してもらったりしました。支払いは茶屋が立て替えてくれるのでツケで遊ぶこともでき、高級な妓楼(大見世)は、引手茶屋を通さないと遊ぶことができませんでした。
また、吉原で遊ぶ出羽国久保田藩の平沢常富(通称:平角)と駿河小島藩の倉橋寿平は、武士の身分でありながら戯作者でもあり、重三郎の仕事仲間でした。
主に平角が文、倉橋が絵を描き、若者たちの粋を描いた二人の洒落本は江戸じゅうの評判に。
平角=朋誠堂 喜三二(ほうせいどう きさんじ)
倉橋=恋川 春町(こいかわ はるまち)
▼江戸時代の本の種類はこちら▼
戯作者として飛ぶ鳥を落とす勢いで名をあげていった平角と倉橋でしたが、時が経ち、老中・田沼意次が失脚し松平定信の時代になると風向きが変わります。
娯楽が規制され、幕府を風刺するような作品を出した二人はお上からお叱りを受けることに。
重三郎はトメに頼まれて、病気になったと噂の倉橋の様子を見に行きました。
倉橋は仮病を使って幕府の呼び出しを無視し、屋敷で戯れ絵(おふざけの絵)を描いていました。それを見て思わず笑ってしまう重三郎。
倉橋は上の方針でコロコロと態度を変える周りの人間に呆れ、まるで罪人のように扱われることに心底疲れ切っているようでした。
その様子を聞いたトメは、「綾乃」を倉橋に会わせてやってほしいと重三郎にお願いします。
綾乃は桔梗屋の娘で、両親に似ず美人。幼い頃から吉原を出たがっており、今は江戸で一番の医局『天真楼』に奉公に出ています。
『天真楼』の主は、かの杉田玄白。吉原の女がどうしてそんな一流の医局に入れたのだろうかと疑問に思う重三郎。
早速綾乃に会いに行きますが、吉原と縁を切りたい綾乃は超塩対応。綾乃には武家の出の医師・新出洪庵(にいで・こうあん)という婚約者がいるようです。
洪庵が言うには綾乃は「両親とは縁を切った。汚れた世界の人々に会いたくない」「あたしは吉原で育ったが吉原の子ではない。本当は吉原で生まれたわけではない」と言っているのだとか。
それを聞いて、ふと綾乃の眼差しが倉橋に似ていることに気づいた重三郎。
(綾乃は倉橋の隠し子なのでは?)
その後、綾乃と洪庵の結婚話はスムーズに進んだらしく、重三郎は倉橋に花嫁行列を見せるため、屋敷から連れ出しました。
綾乃が倉橋とどこぞの美女の子だと思っていた重三郎でしたが、倉橋が言うには綾乃は倉橋とトメの子なのだとか。
重三郎「吉原には美人がたくさん集まるというのに、なぜ倉橋はあのような、間違っても美しいとは言えぬ女を選んだのだろうか」
めっちゃ失礼w
綾乃が『天真楼』で奉公できるよう手配したのも倉橋だったのでした。
この三日後、七夕の日に倉橋は江戸小石川春日町の屋敷内で切腹します。七夕は倉橋とトメが年に一度忍び会っていた日でもあったのでした。
しかしトメは「綾乃は倉橋の子ではない」と言います。父親のわからない子を妊娠した時、倉橋なら簡単に騙されるだろうと思って嘘をついた。娘には吉原を出て幸せになってほしかったと…
(ウソをつくなよ、トメちゃん…)
重三郎は倉橋が遺した「戯れ絵」をいつか出版しようと思っていました。それが実現したのは1798年(寛政10年)のこと。重三郎はその前年に亡くなりましたが、遺言により『故人 恋川春町 遺稿』という黄表紙が耕書堂から開板されたのでした。
感想
綾乃は倉橋が父親だということも、トメの気持ちも知ることなく、自分の力で人生を切り開いたと思って生きていくのでしょうか。それは二人の願いかもしれないけれど、傍から見ると、なんだかなぁ。
吉原に生まれた美人は、通常吉原から出ることなく一生を終えると書いてありました。
トメは綾乃にそんな人生を歩んでほしくなくて、幼い頃から洗脳して吉原を出るように仕向けていたんですね。その気持ちはめっちゃわかります。
吉原で働く女性たちを見ながら、自分の娘は吉原から出す。なんとも言えない気持ちになりますね。
吉原は、男性にとっては極楽でも、女性にとっては地獄。
『蔦重』あらすじと感想「木挽町の絵師」
あらすじ
狩野派の奥絵師として、江戸城で働く文州(ぶんしゅう)。歳は四十過ぎ。
今日は大奥へ出向き、将軍の妾腹の姫君のために扇子に絵を描きます。
注文を聞き、『伊勢物語』に出てくる姫君を必死に描きましたが、
「じじむさい絵は嫌いじゃ」
という容赦ない一言でお役御免にww
奥絵師の中では末席も末席。うだつの上がらない自分に嫌気がさす文州。
まっすぐ家に帰りたくなくて、ふらりと寄った居酒屋で働いていた若い娘に、先ほど描いた『伊勢物語』の姫君の絵をプレゼントしました。
後日、その絵を見たという蔦屋重三郎から、「うちで絵を描かないか」と誘われます。
重三郎は文州が奥絵師だと知って恐縮しますが、「あなたの絵は素晴らしい、あなたの絵が好きだ」と熱烈アピール。
奥絵師の家系に生まれ、幼い頃から絵を描くのが当たり前だった文州。町人の「版画」は自分たちの描く「絵画」とは違うし、巷では有名らしい「耕書堂」も「蔦屋重三郎」という名も知らなかったけれど、真正面から自分の絵を褒められて、ちょっと嬉しい自分がいることに気づき、ドキドキ💗
しかし狩野派の筆頭絵師・栄川の息子である養川が幕府の大きな仕事を請け負うことが決まり、文州もサポートに入ることに。この仕事を通して、文州は自分にも自分なりの役目があると、名もなき奥絵師として人生を全うする決意をするのでした。
その少し前、重三郎が文州を吉原に招いて接待した際、「鉄蔵(てつぞう)」という粗暴な若者を目撃していた文州。
今はただの荒くれ者にしか見えませんが、鉄蔵は重三郎が目をかけている絵師の一人でした。文州もギラついた鉄蔵に何か感じたようです。
鉄蔵が「葛飾北斎」と名乗って町絵師の頂点に立つことになるのは、この40年後のお話。
感想
今回の主人公は名もなき奥絵師でしたが、若かりし頃の葛飾北斎が出てきました。
北斎は世界で一番有名な浮世絵師と言っても過言ではありません。
『神奈川沖浪裏』(富嶽三十六景より)
葛飾北斎
ゴッホやルノワールなどの多くの有名画家に影響を与え、1998年にアメリカの雑誌『ライフ』が企画した「この1000年間で最も偉大な業績をあげた世界の100人」に日本人としてただ一人、選ばれています。
すごいですね✨
「奥絵師」というのは、江戸時代に幕府や大名に仕えていた絵師で、その中でも最も位の高い絵師のことを指します。
奥絵師の中では末席だという文州も、重三郎からしたら本来は雲の上の存在だと思いますが、それでも真っ直ぐにぶつかっていって懐に入ってしまうのがすごいですね。あと一押しだったよ多分。
しかし二条城の襖絵の仕事に携わるような身分の人に、よく「町の本屋で絵を描いてほしい」なんて頼めましたよねw
途中で「こんな素晴らしい絵(伊勢物語の絵)を好きじゃないなんて言うのはどこのどいつだ!」みたいなことを重三郎が言い、文州が(まさか将軍の姫君だとは言えまい)と思うシーンがあるのですが、面白かったです。(語彙)
文州が町人に理解のある穏やかな紳士で良かったw
『蔦重』あらすじと感想「白縫姫奇譚」
あらすじ
『耕書堂』がビジネスをどんどん拡大し、大手の版元となった頃、店には瑣吉(さきち)という手代がいました。
手代とは
商店で、番頭と小僧との中間の使用人のこと
瑣吉は武家の出ですが、小さい頃から物語が好きで戯作者を目指して修行中。しかし、芽が出ぬうちにあっという間に27歳になっていました。
今は吉原への行商(貸本)が主な仕事です。
吉原から出られない少女たちにとって、読書は教養を身に着ける手段でもあり、大きな娯楽でもありました。
瑣吉は人気の黄表紙や絵本の他に、読者への挑戦として小難しい本を紛れ込ませていました。瑣吉にとっては素晴らしく面白い本だけれど、世間からは説教臭いとか難しいとか言われて避けられるような本。
そんな本を読み、付箋を貼っている客がいることに気づいた瑣吉。
しかもそこには、忙しさにかまけてなかなか自分の物語を書けないでいる瑣吉を見透かしているかのようなメッセージが添えられていました。
「何をしている。書きなさい」
こわいですね。
そんなある日、重三郎から吉原の『狂歌の会』に誘われた瑣吉。
なんでも「男の明日が見える(=出世するかどうかわかる)」という話題の花魁・白縫(しらぬい)が臨席する特別な会なのだとか。
酔っ払った男たちによる乱痴気騒ぎが大嫌いな瑣吉。全然気乗りはしないけど、世話になっている重三郎の誘いだし、師匠(山東京伝)も来るしで仕方なく出席することに。
酔っ払った男たちによる乱痴気騒ぎで場が盛り上がってきた頃、いよいよ白縫の登場です。
集まった『耕書堂』のエース作家8人の中で、白縫に選ばれるのは誰か…!?
集まった有名人たち
山東京伝、太田南畝、立川焉馬、元木網、朱楽菅江、唐来三和、唐衣橘洲、喜多川歌麿
皆が固唾をのんで見守る中、白縫が選んだのは…
瑣吉!!
めっちゃ気まずいやつ~~
選ばれた男は白縫と一夜を共にすることができるのですが、離れで白縫の顔をじっと見た瑣吉は、彼女がいつも妓楼の裏階段に腰掛け、貸本を待っていた少女だと気がつきます。
白縫「全てを捨てて、まことの名に戻り、ひとりで戯作者になってくだしゃんせ」
小難しい本に付箋をつけていたのは白縫、おまえだったのか~~~
一ヶ月後、『耕書堂』を辞めた瑣吉。
実は瑣吉、白縫とは故郷が同じで、幼い頃は顔見知りだったようです。
そしてあの夜の「催し」は、戯作に苦しむ瑣吉を元気づけるため、白縫と耕書堂の作家たちが計画した茶番だったのだとか。
瑣吉は白縫に言われた通り山東京伝や重三郎に別れを告げ、子供の頃に名乗っていた「マコト」=「馬琴(ばきん)」と名を変え、真剣に戯作に向き合うことにしました。
地道に努力した甲斐あって、30歳を過ぎてから戯作者「曲亭馬琴」として名をあげます。
有名な『南総里見八犬伝』が完結するのは、実に49年後のことなのでした。
感想
曲亭馬琴(滝沢馬琴)が出てきました!
歴史の教科書に載っているような有名人が次々と出てきますね。蔦屋重三郎がいかに当時の流行の最先端にいたのかわかります。
馬琴先生といえば、朝ドラ『らんまん』でおすえちゃん(浜辺美波)が好きだった『里見八犬伝』!
文化11年(1814年)に刊行が開始され、28年をかけて天保13年(1842年)に完結した、全98巻、106冊の大作です。
子供向けの、漫画版『南総里見八犬伝』を読んでみましたが、少年漫画みたいなアツい冒険物語でした✨散らばった八つの玉を探すというストーリー、八犬士たちのキャラクターが魅力的で、みんな夢中になるのがわかります。
さて、白縫は架空の人物ですが、現実にも有名人の出世に一役買ったような遊女がいたかもしれません。馬琴は重三郎の元を去った後に結婚して子供も授かり、82歳まで生きますが、遊女の平均寿命は20代前半なのだとか。
幼い頃に吉原に売られ、限られた生活の中で時々やってくる貸本の行商を楽しみにしていた少女。
白縫のその後も気になりました。
『蔦重』あらすじと感想「うかれ十郎兵衛」
あらすじ
1793年(寛政5年)に発令された「奢侈禁止令(しゃしきんしれい)=贅沢禁止」により、江戸の芝居町は大打撃を受けていました。
都座という芝居小屋の座主・都伝内(みやこ・でんない)から「力を貸してほしい」と頼まれた重三郎。
伝内が大金を積んで引き抜いたという上方の人気作家・並木五瓶(なみき・ごへい)とともに打開策を練ります。
そこで、並木が描いた舞台の裏方への「指図書」を錦絵にすることを思いついた重三郎。並木は役者の顔を美化することなく特徴をそのまま捉えた面白い絵を描いていたのです。
「脚本で手一杯で絵までは描けない」と言う並木の代わりに、絵師を探すこととなりました。
重三郎は、今や耕書堂の一番の売れっ子となっている喜多川歌麿に頼みましたが、あっさり断られます。
歌麿は近頃、名の知れた花魁だけでなく町の茶屋などで働く娘なども描くようになり、特に寛政5年に描かれた『高島屋のおひさ』は爆発的な人気となっていました。今は役者ではなく、市井に生きる普通の女性を描くことを極めたいのだそうです。
『高島屋のおひさ』
喜多川歌麿
そこで、この仕事を頼むことになったのは、十郎兵衛(じゅうろべえ)という能役者(帯刀を許されない特殊な身分のサムライ)でした。
十郎兵衛と重三郎は昔の飲み仲間ですが、当時、美しい芸者・於美与をめぐって確執がありました。彼女は吉原で遊んでいた連中のマドンナ的存在であり、いわゆる“みんなの於美与”。抜け駆けは許されない雰囲気の中、十郎兵衛が裏で彼女を籠絡していたことが明らかになったのです。
こんな卑怯者の十郎兵衛と仕事をするのはすごい嫌だけど、芝居町の仕事が奉行所に監視されている今、この危険な仕事を頼めるのはこいつしかいない…!
十郎兵衛の雅号は「東洲斎写楽」(とうしゅうさい・しゃらく)といいました。
寛政6年5月。
五月公演へ向け、東洲斎写楽の芝居錦絵が一斉に開板されます。
並木の下絵をなるべく忠実に再現しつつ、写楽が歌舞伎の独特な手の動きを絶妙に表現。誰も見たことのないような迫力のある絵が出来上がりました。
『三代目大谷鬼次の奴江戸兵衛』
東洲斎写楽
それまでの、役者を最大限美化した絵とは違い、特徴を面白おかしく誇張した絵は役者からは不評でしたが、興行の成功のためと伝内が必死に説得しました。
その結果、都座を含む江戸三座の五月公演は大成功🎉
次の七月公演の準備で大忙しの重三郎。
十郎兵衛(写楽)は吉原で誰かに吹き込まれたのか、今度は役者の上半身を描いた「大首絵」だけではなくて、全身の立ち姿も描きたいと言ってきました。
「吉原の連中は好き勝手言うが、俺は売れる絵を出さなければならない!」と心の中で苦い顔をする重三郎。
突然の人気に浮足立って気が散り、先を見据えることができない十郎兵衛を切り捨てることに。
(この男は今がピークなのだ…。孤独に耐えて自分の絵を追究し続けるだけの力はない)
6ヶ月後、奉行による江戸歌舞伎取り潰しの危機が去り、安堵する重三郎。
十郎兵衛は他の版元から平凡な絵を出すなどして、重三郎とはすっかり疎遠になっていました。
「あいつはほんとにダメなやつだ」と愚痴る重三郎に、芝居茶屋の静ちゃんは言いました。
「十郎兵衛はただ必死なだけ。思うようにならない、うまく物事が運ばない中でなんとか世に出たいと一生懸命描くだけ。頭も要領も良くて、力も手に入れた重三郎にはわからない。私は一生懸命な十郎兵衛を可愛いと思うよ」
「十郎兵衛が、か、可愛い?!」
衝撃を受ける重三郎w
でもそれを聞いて、於美与をめぐる昔の確執を思い出しました。彼女は騙されたわけじゃなくて自分で十郎兵衛を選んだのかもしれない…。
こうして東洲斎写楽という絵師は、寛政6年から7年にかけて4回の興行の錦絵だけを残して姿を消しました。
活動期間はわずか10ヶ月。
しかし百年後、日本の浮世絵は大量に欧州に渡り、写楽の絵は海外で大人気に。作品は高値で取引され、熱狂的なコレクターが世界中に存在しているのだとか。
感想
今だ謎も多い東洲斎写楽の正体ですが、現在はこの小説の通り、「八丁堀に住んでいた阿波徳島藩主蜂須賀家お抱えの能役者である斎藤十郎兵衛」という説が有力となっているようです。
十郎兵衛は武士の身分であったので(能は幕府の芸能だった)、表向き重三郎は気を遣っていましたが、心の中では完全に見下していましたね。
於美与のことで抜け駆けされただけではなく、恋川春町が切腹するきっかけとなった(史料では切腹したかどうかははっきりしていない)寛政の改革の時にも、十郎兵衛だけはのらりくらりと姿を消してだんまりだった模様。
実際どんな人だったのかわかりませんが、随分な描かれようでした。
でも、正体不明の東洲斎写楽の絵は確かに今日まで残り、日本のみならず世界中で愛されているというのは浪漫のある話ですね。
大河ドラマで写楽のことがどのように描かれるのかは、楽しみの一つであります!
まとめ
短編集なので読みやすいです。
恥ずかしながら「蔦屋重三郎」は大河ドラマで取り上げられるまで知りませんでしたが、調べれば調べるほど興味深い人物ですね…
有名人の陰に蔦重あり。
喜多川歌麿も、葛飾北斎も、蔦重がいなければ世に出ていなかったかもしれないじゃないですか。
このお話の中に出てくる重三郎はまさに切れ者。やり手プロデューサーって感じです。
吉原生まれなので、吉原も頻繁に出てくる。
当時の吉原には確かにポップカルチャー発祥の地としての一面もあったのかもしれませんが、私はやっぱり暗くて悲しいところだと思ってしまいました。
おじさんたちが集まって美妓をモノみたいに売り出す相談をしているところとか、水揚げの様子を絵師に描かせて太客にこっそり配るとか、心が苦しくなってしまいます。
出てきた登場人物の中で一番好きなのは、名もなき奥絵師・文州かなぁ。
自分にも自分の仕事にも自信なさげだけれど、やる時はやるんですよ。首が飛ぶのを覚悟で将軍の前で発言するシーンはかっこよかったです。
あらすじでは端折りましたが、鱗形屋孫兵衛や大文字屋など大河ドラマに出てくる人物も登場するのでワクワクしました♪